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田中吉政 [歴史]


田中吉政といっても知らない人が多いでしょう。福岡県筑後地方の初代筑後国主です。関ケ原の戦いで東軍の石田三成を捕らえた功績で領地を与えられました。先日、NHK「日本人のおなまえ」田中・山本篇で紹介されました。地元では立花宗茂が西軍になり敗北したのに立花宗茂が復活したので、知名度があると見込んで立花宗茂を大河ドラマにという活動がされていますので、立花推進派にとっては驚いたことでしょう。田中吉政の業績としては、柳川の掘割 花宗川の治水 街道整備 福島城と城下町などが挙げられていました。有名な柳川の掘割のほかに、私も知らないことばかりが出てきました。           「コラム 春秋 うちで踊ろう、福はうち2021/2/2西日本新聞 」では、きょうは節分。今夜は恵方巻きにかぶりつき」とあります。元々は関西地方の習慣で、いつのまにか広がったというよそ者感が九州人にはあります。今年の追い払いたいものはっきりしています。先生方の夜遊びも・・・。


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民間資料で歴史をつかむ [歴史]



「大宰府ヒストリー 記者ノート 2021年1月9日西日本新聞」では、地元の歴史を日記から知ることができたという。 大野城市下大利のKさんの祖父が残した日記は暮らしを記録する大切さを教えてくれたという。例えば、汽車が寒村に鉄路を走ったときの模様です。記事では次のように説明されています。 「寒村だった地域に鉄路が敷かれ、1889年に汽車が走った。『授業中であったにもかかわらず、先生も生徒も教室を飛び出して見たものだ』との記述は人々の高揚ぶりが如実に伝わってきた。コロナ禍での暮らしや社会の変容も、歴史の一端。疫病の流行や乱世も乗り越え、成長してきた大宰府の地で、災いを受け入れながら、みんなで地域の歴史を刻んでいきた い」 JRの線路の他に西鉄電車も近くを走ることになります。水城跡のなかに思水園といった料亭らしきものがあったというが、はっきりした資料がないと数年前の新聞が伝えていました。そうしたものも個人の日記や社史などの記録の中に眠っているかもしれない。
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特別史跡 水城の謎は [歴史]



白村江の戦いに敗れた日本軍は当時の政治経済の中心としての大宰府防衛のために土塁を短期間でつくったのが水城(みずき)。博多方面に水をたたえていたとされます。平地での防衛施設です。山の方では大野城という山城をつくりました。国の史跡認定から100年を迎えるそうです。今でも、教育委員会による発掘が続いていますが、大規模で急ぐ仕事をどのようにしていたのかという点が分からないという。もうひとつ不明な点として川を上ってきたら大宰府に侵入されやすいが、その点がどう考えていたのかという謎があるという。 「大宰府ヒストリー 水城跡 二つの謎 2021年1月8日西日本新聞 「今年3月、大宰府跡と水城跡は国史跡指定から100年を迎える。水城の土塁は長さ約1・2キロ、高さ約10メートル、幅約80メートル。 何しろ重機もない大昔の大事業。人海戦術が展開されたはずだが、『宿舎や食事の提供 場所は長年の調査でも未解明』(西谷正・九州大名誉教授)という。 謎は他にもある。水城は宝満山から博多湾に注ぎ込む御笠川で途切れている。敵軍が川を渡って攻めてきた場合、大宰府の街区に容易に侵入されてしまう『最大の弱点』だ。この周辺の警備状況も不明のままだ」  教育委員会の担当者はこれを解明するのをしないのだという。史跡の原型を壊してしまうおそれがある発掘はしないということだろう。一つの選択だと思う。
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